『芽むしり仔撃ち』から見る「自由」について~共同体における自由の幻想~
1月の課題図書『芽むしり仔撃ち』が予想以上におもしろかったので、自分なりの感想を以下にまとめてみた。
作品概要
大戦末期、山中に集団疎開した感化院の少年たちは、疾病の流行とともに、谷間にかかる唯一の交通路を遮断され、山村に閉じ込められる。この強制された換金(※)状況下で、社会的疎外者たちは、けなげにも愛と連帯の“自由の王国”を建設しようと、緊張と友情に満ちたヒューマンなドラマを展開するが、村人の帰村によってもろくも潰え去る。綿密な設定と新鮮なイメージで描かれた傑作。
※恐らく「換金」ではなく「監禁」の間違いだと思う。
<主な登場人物>
- 僕:主人公。感化院の少年たちのリーダー格。
- 弟:「僕」の弟。集団疎開のために無理やり感化院に入れられた。
- 南:「僕」と同世代で、もう一人のリーダー格。
- 李:村の朝鮮人集落の少年。僕や南らと行動を共にする。
- 少女:母を疫病で亡くす。僕と恋仲になる。
- 鍛冶屋の男:村での感化院の少年たちを監視する役を務める。
- 村長:村の権力者。感化院の少年たちの生殺与奪権を握っている。
- 脱走兵:演習中に脱走した兵士。元々は文系の学生。
共同体という見えない壁
「僕」をはじめとする感化院の少年たち(以下、「僕ら」)は、集団疎開の途中で何度か脱走を試みるも、行く先の村の人々に捕まえられた上に暴力を振るわれ、連行された。
そうして「僕ら」は周囲に村(=共同体)という見えない壁があり、その壁は部外者であり犯罪者でもある「僕ら」を決して受付けないことを学習した。
「僕ら」は各地を転々とし、ついに集団疎開を受け入れてくれる村へ行き着いた。
だが、その村も「僕ら」を拒絶し、人間として扱うことはなく、「僕ら」は村(=共同体)という見えない壁に監禁され、支配されるのであった。
村は、谷を渡った深い山奥にある寒村である。
また村には、村の家畜や周囲に生息する野生の動物たちが次々と謎の病に侵され死んでおり、不穏な空気が流れていた。
村は当初、「僕ら」を使役して謎の病で死んだ動物たちの処理を行い、村に疫病が流行るのを防ごうとする。
しかし、朝鮮人集落の者(李の父)が死に、村人(少女の母)が死に、最後に「僕ら」の仲間が死ぬと、村人たちは「僕ら」を見捨てて隣の村へ一斉に避難してしまう。
「僕ら」は地理的にも物理的にも閉鎖された環境下で生き延びなければならなくなる。
だが、同時にそれは村(=共同体)という見えない壁が崩れ、自由を享受することになったのだった。
「自由の王国」の誕生から崩壊まで
村人が「僕ら」を見捨てた後、「僕ら」は唐突に自由を享受するのだが、その自由をどう享受すればいいのか分からず、はじめはその自由を弄んでいた。
しかし、「僕ら」は村の朝鮮人集落出身の少年である李と出会ったことで徐々に変わっていく。
まず、彼から脱走兵をかくまっていることを打ち明けられ、「僕ら」と秘密を共有することで連帯感を強めた。
さらに、「僕ら」は李から狩猟や祭りの行い方を教わることによって、徐々にその自由を謳歌するのと同時にさらに連帯感を強めていき、自由を獲得した充足感を味わっていく。
また「僕」は母を疫病で亡くし「僕ら」と同じく村人に見捨てられた少女と心を通わすことによって、心が満たされていった。
気がつけば、「僕ら」と李、少女、脱走兵という社会的アウトサイダーで構成された「自由の王国」が誕生したのだった。
だが、この社会的アウトサイダーで構成された共同体の強固な連帯から生まれた自由は、この後すぐに脆くも崩れ去ることになる。
新潮社の公式サイトで紹介されている通り、この自由の崩壊は「村人の帰村によって」起こされているとされているが、私は違うと思う。
それよりも前――つまり、南が弟の犬・レオを撲殺したときだと私は考える。
村人が不在となって以来、「僕ら」は自由を謳歌していた。
そこには「僕ら」を縛る規律はなく、また差別もなく(脱走兵に対する軽蔑はあったが)、まさに自由な生活を送っていた。
しかし、弟が飼っていた犬・レオが疫病に侵されているのではないかという疑いが掛けられると、「僕ら」はその犬を共同体から排除しようとする。
さらにその犬をかばう弟も非難の対象となり、共同体から疎外されそうになる。
ついには、南がその犬を撲殺し、疫病の蔓延を阻止しようとする。
兄の「僕」でさえ、弟をかばわずにその行為を黙認してしまう。
犬は死に、弟は悲しみと絶望のあまり自ら共同体を抜け出して失踪してしまう。
結果として、「僕ら」は村人と同じように共同体を維持するために暴力的な手段で脅威を排除したのだった。
この時点で「自由の王国」は崩れ去り、新たな共同体としての規律が生まれ、「僕ら」はそれに縛られるのだった。
「僕」にとっての本当の自由の恐ろしさ
「僕」は南や他の感化院の少年たちとは違い、冷静な判断力や洞察力を持った人物だ。
例えば、「僕ら」が疫病という見えない脅威によって恐慌状態に陥らないようにしたり、前述のとおり「僕ら」共同体維持のために弟を切り捨てたりと、大人顔負けのことを行っている。
本人は、「僕ら」のリーダーではないと口では言ってはいるが、その行動からリーダーとしての務めを果たしていることがうかがえる。
従って、一見「自由の王国」では自由にふるまっているかのように見えるが、「僕」はリーダーとしての規範に縛られており、本当の意味での自由は享受していない。
しかしながら、弟といるときだけは自由を享受していたように見受けられる。
弟は「僕」にとって心の支えであるだけではなく、他者との潤滑油的な役割を担っていたいわば境界人の存在だといえるだろう。
なぜなら弟は元々、感化院に収容されたのではなく、親の意向で無理やりいれられた普通の子供であり、一方では感化院の少年たちから仲間として受け入れられていたからである。
個人的には『ライ麦畑でつかまえて』のフィービーに似ている部分があると思う。
そんな「僕」にとって大切な弟が、レオの撲殺以降に失踪してしまう。
そしてその後、村人たちが村に帰還し、脱走兵を血祭りにあげ、「僕ら」を暴力でもって村に置き去りにしたことをなかったことにしようとする。
「僕ら」は置き去りにされたことをなかったことにはできないと反発したが、いかんせん「僕ら」は飢えていた。
一人また一人と、村長から握飯をやるという取引に応じ、「僕ら」を裏切って離れていってしまう。
最後に「僕」だけが残り、抵抗する。
恐らく「僕」は自覚していたのだろう――弟を失うことになったレオの撲殺を黙認したことは、彼ら村人たちがしたことと同じことだと。
むしろ抵抗というよりも贖罪に近いのかもしれない。
「僕」が屈服しないことに見かねた村長は、「僕」を村から追放することに決める。
そして「僕」は追放されることによって「僕ら」と「村」という二つの共同体から解放され、真の意味での自由を手にすることになった。
だが、最後の文章から暗示されるように、その自由はとても残酷で、先行きは暗澹たる絶望の闇が広がっているようだ。