もう一つの人類補完計画―『すばらしい新世界』が提示する幸福―
物語のあらすじ
すべてを破壊した“九年戦争”の終結後、暴力を排除し、共生・個性・安定をスローガンとする清潔で文明的な世界が形成された。人間は受精卵の段階から選別され、5つの階級に分けられて徹底的に管理・区別されていた。あらゆる問題は消え、幸福が実現されたこの美しい世界で、孤独をかこっていた青年バーナードは、休暇で出かけた保護区で野人ジョンに出会う。
※「BOOK」データベースより
もう一つの「人類補完計画」
『すばらしい新世界』は、英国の作家オルダス・ハクスリー(1894-1963)が1932年に発表したディストピアSF小説です。
まず本著を読んで、今の時代に合わせた翻訳に助けられているとはいえ、とても1932年に発表されたものとは思えないような先見性と洞察力に驚嘆しました。
特に驚いたのは、小説の舞台である世界国家「すばらしい新世界」の安定を目的とした以下の社会システムです。
- 人間を人工授精と受精卵クローニングで“大量生産”
- “大量生産”時に優生学的操作で社会階級とその後の人生を決定
- 幼少期からの洗脳教育による階級(カースト)の正当化
- 家族制度の廃止とフリーセックスの奨励
- 合法ドラッグ「ソーマ」による現実逃避の推奨
これらの多くは現代の科学において現実可能なものばかりである反面、倫理の面では完全に論外です。
しかしながら、この社会「すばらしい新世界」で暮らす人々は、誰もが充足した安寧の日々を送っているのです。
万人の心が満たされ幸福になる――そう、手段は違えどアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のキーである「人類補完計画」に類似していると言えます。
ちなみに「人類補完計画」とは、簡単に言えば人類を一つの生命体に進化させ、魂を一つに補完することで、それまで別々だった人類の魂が一つになり、心の隙間が満たされて幸せになるというものです。
つまり、「すばらしい新世界」は社会システムによって補完されたある意味“楽園”なのです。
“野人”ジョンと碇シンジ
物語の後半の主人公ともいうべき“野人”ジョンは、父親不在のうちに幼少期を過ごし、そして物語の途中で母親を失います。
一方、碇シンジはというと、幼少期で母を失い、また父親不在のうちに過ごしています。
どちらも非常に類似した境遇であり、物語中で“母なるもの”を求めているように思えます。
例えばジョンは、母の最期を看取るときに母との記憶を呼び起こしたり、子どもとしての自分を最後に見てほしいという衝動から、ソーマで夢うつつの母親を無理やり目覚めさせようとしたりします。
そうした“母なるもの”などの喪失を経験したせいか、二人ともかなり内罰的です。
そしてその内罰的な思考から、どちらも悲劇的な道をたどることになります。
不幸になることを選べる権利は幸福なのか?
物語の終盤で、ジョンは「すばらしい新世界」を統治する数少ない支配者であるムスタファ・モンドとこの世界のあり方について問答します。
そこでジョンは、人間の尊厳を死守するため権利を要求します。
その権利とは、「幸福になる」ことも「不幸になること」も選択できる自由です。
それを聞いたムスタファ・モンドは、あっさりとその要求を受け入れます。
そしてジョンは結果的に「不幸になること」を選択し、「すばらしい新世界」に敗北して自殺してしまいます。
この最後の結末においては、碇シンジと異なります。
彼は幾度となく絶望を乗り越え、最後は「人類補完計画」を否定し、自己を肯定するまでに成長します。
このジョンの自殺は大変ショッキングで、結果的に肯定していた自由によって殺されたことになり、また「すばらしい新世界」の勝利という風に捉えられてしまいます。
しかし、「すばらしい新世界」のような人間の尊厳を踏みにじるような世界を望みません。
不幸になることも選べる自由は残酷ではありますが、一方の幸福になるという選択肢は残されているということでもあります。
そして願わくば、この世界にまだ幸福になるための選択肢が残されていることを祈っています。
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