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共同体の本質―『蠅の王』と『芽むしり仔撃ち』を比較して―

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はじめに

2月の個人的課題図書『蠅の王』を読了した。

 

yohane83.hatenablog.com

 

『蠅の王』は高校生の時に一度読んだことがあるのだが、今回は新訳で、しかも訳がコーマック・マッカーシーをはじめ数々の名訳を生み出してきた黒原敏行さんが担当されたということで改めて読み直してみた。

 

読了してまず思ったのは、1月に読んだ『芽むしり仔撃ち』と多くの部分で設定が共通していながら、子供たちの心理に関する描き方を主にさまざまな相違があったということだ。

 

今回は、『蠅の王』と『芽むしり仔撃ち』を比較して共同体の本質について考えていきたい。

 

物語のあらすじ

疎開する少年たちを乗せた飛行機が、南太平洋の無人島に不時着した。生き残った少年たちは、リーダーを選び、助けを待つことに決める。大人のいない島での暮らしは、当初は気ままで楽しく感じられた。しかし、なかなか来ない救援やのろしの管理をめぐり、次第に苛立ちが広がっていく。そして暗闇に潜むという“獣”に対する恐怖がつのるなか、ついに彼らは互いに牙をむいた―。

※「BOOK」データベースより

 

 

『蠅の王』と『芽むしり仔撃ち』の共通性と相違性

 この2つの小説の設定は奇妙に似ていながら、内容が大きく異なっている。

 

そこで、設定における共通性と内容の相違性を挙げてみたいと思う。

 

<共通性>

  • 戦中を舞台にし、物語のスタートがどちらも疎開から始まる
  • 疎開する子供たちが不可抗力により、隔絶された空間でサバイバルを強いられる
  • 主人公が子供たちのリーダー格

 

<相違性>

  • 『蠅の王』では子供たちが分裂し対立するが、『芽むしり仔撃ち』では団結し協調する
  • 『蠅の王』におけるラストは大人によって救出されるが、『芽むしり仔撃ち』では大人に排除され絶望的な状況に追い込まれる

 

ポイントは、協調と対立である。

 

『蠅の王』において、子供たちにとって大人は状況を打開し得る救済者であるのに対し、『芽むしり仔撃ち』においては、大人は子供たちを抑圧する存在で敵対していた。

 

つまり、『蠅の王』では子供たちの集団の外において敵対者がいなかったために集団内で対立し、一方で『芽むしり仔撃ち』において大人は敵であったために子供たちは協調したのだ。

 

換言すれば、共同体というのは敵の存在なしには成立しないのである。

 

 

共同体に潜む「悪」について

この敵対を描くことによって、『蠅の王』では人間に潜む普遍的な悪を表出できたし、一方で『芽むしり仔撃ち』では大人たちの矛盾によって生み出された「悪」をあぶりだすことに成功したといえる。

 

これらで描かれている共同体に潜む「悪」は寓意ではあるが、その寓意は普遍性を持っているため、逆に現実世界へとリンクし、私たちを当惑させるのである。

 

私たちはこの「悪」を自覚しつつも、何かしらの共同体に属し、時には他者を排除したりする。

 

何がそうさせるのだろうか?

 

恐らくそれは「恐怖」だろう。

 

『蠅の王』におけるジャックで例を挙げれば、ジャックは自分の意見とかみ合わず、このままでは自己の存在理由が危ぶまれると恐怖したことにより、反ラルフ同盟ともいうべき「部族」を形成し、次にラルフ達から隔絶するために砦を築き、そしてラルフの相棒であり頭脳でもあるピギーを殺害し(実際に手を下したのはロジャーだが)、ついにはラルフを孤立させ殺そうとする。

 

私たちは恐怖から身を守るために共同体を形成するが、そこには一つの目的と考えしかないために、周囲からみれば人道に反した行動をとったとしても気づかないのである。

 

さらに、ジャックが「部族」の形成からエスカレートして砦まで作ったように、最小の恐怖からまた別の恐怖が生まれ、さらにその恐怖から別の恐怖が生まれるという連鎖が起き、気がつけば取り返しのつかない事態にまでなってしまう。

 

 

おわりに――『蠅の王』のすごさについて 

『芽むしり仔撃ち』は詩的な文章と舞台設定により、現実に寄り添った世界観でありながら、同時にどこか非現実的なのである。

 

一方、『蠅の王』は島における子供たちの行動や心理に関する描写がち密に描かれており、現実に寄り添った世界観である。

 

しかし、それはあくまでもサイモンと「蠅の王」との対話シーンが登場するまでの話。

 

後半で、サイモンという少年と「蠅の王」が対峙し、サイモン少年はそこで人間に潜む「悪」の本質を「蠅の王」から説かれるシーンが登場する。

 

この対話シーンは突如、それまでの現実的な世界から跳躍して異質な世界観の中で語られるのである。

 

初めて『蠅の王』を読んだとき、この跳躍に身震いした。

 

このシーンがなければ、恐らくこの小説は高い評価を得られていないのではないだろうか。

 

この跳躍は『芽むしり仔撃ち』にはないすごさだと思う。

 

ぜひとも、両作品を読み比べていただきたい。

 

蠅の王〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

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芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

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