Flare

写真とカメラにをメインに、そして時々ヘビメタや文学関係を書いています。

2019年ノーベル文学賞受賞者を真剣に予想してみる

今年は2年分の受賞者を発表

昨年はくだらないスキャンダルのせいで中止となりましたが、今年は予定通り発表する見通しとなりました。

 

しかも、前年の受賞者とあわせて2年分を発表するようです。 

 

www.nikkei.com

 

ということで、今回も2017年に引き続き、受賞者の予想をしていきたいと思います。

 

 

国際的文学賞の受賞歴から候補者を絞る

これまでのノーベル文学賞を受賞された方々は、受賞に先立っていくつかの国際的な文学賞を受賞されております。

 

過去30年ほどのノーベル文学賞受賞者の受賞歴を調べ、共通して先立って受賞した主な国際的文学賞を独自に調査してみました。

 

※正確には文学賞ではない

 

これらの文学賞を複数受賞し、しかも存命の方々は以下に絞られます。

 

 

というわけで、受賞歴からみれば以上の方々が有力候補だと言えるでしょう。

 

 

ブックメーカーの常連たちも候補者に

毎回、ニュースでも話題になるブックメーカーですが、上記の受賞実績以外で、常連のように名を連ねる方々も候補者に入れたいと思います。

 

その常連というのは、以下の方々です。

 

 

さて、これで18名に絞り込みました。

 

 

過去20年の受賞者の国籍や性別で絞り込む

過去20年の受賞者の国籍から、大変興味深いデータを見ることができます。

 

それは、受賞者のほとんどがヨーロッパ出身で、なおかつ北ヨーロッパと西ヨーロッパ出身者が多くを占めていることです。

 

国で言えば、イギリスが最多です。

 

このことから、以下の2通りの考え方があります。

 

  1. 今まで通り、ヨーロッパ中心主義的な選考となる
  2. 選考委員会の改革により、これまでとは異なり脱ヨーロッパ主義的な選考となる

 

1.で言えば、恐らくジョン・バンヴィルもしくはクラウディオ・マグリスが有力ではないでしょうか。

 

また2.で言えば、デイヴィッド・マルーフや村上春樹グギ・ワ・ジオンゴが有力ではないでしょうか。

 

一方で、過去20年の受賞者の性別をみると、男性:女性の比率は1:4です。

 

直近だと、2015年にスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの受賞が最後です。

 

また近年における国際的文学賞において、女性の受賞者が増えてきているように感じられます(あくまでも個人的な感想ですが)。

 

そうすると女性で言えば、マーガレット・アトウッドやドゥブラヴカ・ウグレシィチ、ジョイス・キャロル・オーツが有力と言えそうです。

 

 

個人的予想は?

ここまできて、8名に絞られました。

 

改めてその方々を見てみましょう。

 

 

さて、ここから最終的に2名まで絞りたいと思います。

 

やはり、受賞歴や国籍を鑑みて、クラウディオ・マグリスが有力候補だと思います。

 

また受賞歴も含め、女性という視点からマーガレット・アトウッドも有力候補だと思います。

 

しかしながら、直近の受賞者を見ると、受賞歴は全くあてにならなそうです。

 

なので、もしかするとボブ・ディランのようなサプライズがあるかもしれません。

 

個人的には、村上春樹コーマック・マッカーシーが受賞となれば嬉しいのですが・・・。

 

とにかく、今年の受賞発表が楽しみです。

 

 

ドナウ ある川の伝記

ドナウ ある川の伝記

 
侍女の物語 (ハヤカワepi文庫)

侍女の物語 (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

もう一つの人類補完計画―『すばらしい新世界』が提示する幸福―

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物語のあらすじ

 すべてを破壊した“九年戦争”の終結後、暴力を排除し、共生・個性・安定をスローガンとする清潔で文明的な世界が形成された。人間は受精卵の段階から選別され、5つの階級に分けられて徹底的に管理・区別されていた。あらゆる問題は消え、幸福が実現されたこの美しい世界で、孤独をかこっていた青年バーナードは、休暇で出かけた保護区で野人ジョンに出会う。

※「BOOK」データベースより

 

 

もう一つの「人類補完計画

 『すばらしい新世界』は、英国の作家オルダス・ハクスリー(1894-1963)が1932年に発表したディストピアSF小説です。

 

まず本著を読んで、今の時代に合わせた翻訳に助けられているとはいえ、とても1932年に発表されたものとは思えないような先見性と洞察力に驚嘆しました。

 

特に驚いたのは、小説の舞台である世界国家「すばらしい新世界」の安定を目的とした以下の社会システムです。

 

  • 人間を人工授精と受精卵クローニングで“大量生産”
  • “大量生産”時に優生学的操作で社会階級とその後の人生を決定
  • 幼少期からの洗脳教育による階級(カースト)の正当化
  • 家族制度の廃止とフリーセックスの奨励
  • 合法ドラッグ「ソーマ」による現実逃避の推奨

 

これらの多くは現代の科学において現実可能なものばかりである反面、倫理の面では完全に論外です。

 

しかしながら、この社会「すばらしい新世界」で暮らす人々は、誰もが充足した安寧の日々を送っているのです。

 

万人の心が満たされ幸福になる――そう、手段は違えどアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のキーである「人類補完計画」に類似していると言えます。

 

ちなみに「人類補完計画」とは、簡単に言えば人類を一つの生命体に進化させ、魂を一つに補完することで、それまで別々だった人類の魂が一つになり、心の隙間が満たされて幸せになるというものです。

 

つまり、「すばらしい新世界」は社会システムによって補完されたある意味“楽園”なのです。

 

 

“野人”ジョンと碇シンジ

 物語の後半の主人公ともいうべき“野人”ジョンは、父親不在のうちに幼少期を過ごし、そして物語の途中で母親を失います。

 

一方、碇シンジはというと、幼少期で母を失い、また父親不在のうちに過ごしています。

 

どちらも非常に類似した境遇であり、物語中で“母なるもの”を求めているように思えます。

 

例えばジョンは、母の最期を看取るときに母との記憶を呼び起こしたり、子どもとしての自分を最後に見てほしいという衝動から、ソーマで夢うつつの母親を無理やり目覚めさせようとしたりします。

 

そうした“母なるもの”などの喪失を経験したせいか、二人ともかなり内罰的です。

 

そしてその内罰的な思考から、どちらも悲劇的な道をたどることになります。

 

 

不幸になることを選べる権利は幸福なのか?

 物語の終盤で、ジョンは「すばらしい新世界」を統治する数少ない支配者であるムスタファ・モンドとこの世界のあり方について問答します。

 

そこでジョンは、人間の尊厳を死守するため権利を要求します。

 

その権利とは、「幸福になる」ことも「不幸になること」も選択できる自由です。

 

それを聞いたムスタファ・モンドは、あっさりとその要求を受け入れます。

 

そしてジョンは結果的に「不幸になること」を選択し、「すばらしい新世界」に敗北して自殺してしまいます。

 

この最後の結末においては、碇シンジと異なります。

 

彼は幾度となく絶望を乗り越え、最後は「人類補完計画」を否定し、自己を肯定するまでに成長します。

 

このジョンの自殺は大変ショッキングで、結果的に肯定していた自由によって殺されたことになり、また「すばらしい新世界」の勝利という風に捉えられてしまいます。

 

しかし、「すばらしい新世界」のような人間の尊厳を踏みにじるような世界を望みません。

 

不幸になることも選べる自由は残酷ではありますが、一方の幸福になるという選択肢は残されているということでもあります。

 

そして願わくば、この世界にまだ幸福になるための選択肢が残されていることを祈っています。

 

 

 

 

秋の夜長に「旅の本」はいかがですか?

はじめに

 

僕は「旅」についての本(紀行文や小説などなんでも)が大好きです。

 

中学生のときは『キノの旅』と『狼と香辛料』が、大学生のときに文学に目覚めてからは『パタゴニア』と『ジャック・ロンドン放浪記』が愛読書となりました。

 

なぜこんなに「旅」に関する本が好きなのか――自分でもよくわからなかったのですが、イタリアの作家アントニオ・タブッキの『島とクジラと女をめぐる断片』(青土社)にある次の一節を読んでやっとしっくりしました。

 

旅行記がおもしろいのは、不可避で重苦しい僕たちの日常の「ここ」に対して、理屈めいてもっともらしい「よそ」を見せてくれるからだ。”

 

まさしくその「よそ」を見せてくれる「旅」を追体験できることが旅行記や紀行文などの最大の魅力だと思います。

 

今回は、そんな「旅」についておすすめしたい小説や紀行文、写真集5冊を紹介していきます。

 

 

1.『パタゴニア』/ブルース・チャトウィン

パタゴニア (河出文庫)

パタゴニア (河出文庫)

 

 子供のころに祖母の家でパタゴニアから発掘された一片の古い「皮」を見つけたことがきっかけで、パタゴニアという辺境に対して夢想と憧憬を抱いたチャトウィンは大人になったある日、仕事場に「パタゴニアに行ってきます」という一枚のメモを残してパタゴニアへ旅立ちます。

 

旅の目的は、その「皮」が発掘された洞窟(現在のパイネ国立公園近く)まで行くことですが、その道中の体験と併せてその土地にまつわる神話や伝承などを織り交ぜながら語るという独特な手法で描かれているため、読者は「皮」のことなんか忘れてその物語に夢中になってしまいます。

 

そうした手法が評価され、『パタゴニア』は20世紀最高の紀行文学と称されています。

 

チャトウィンは「なぜ人は旅をするのか?」という根源的な問いに対して答えを追い求める放浪者で、その後オーストラリアの先住民族アボリジニが創造した見えない道“ソングライン”をたどる中で答えを見出そうとします。

 

その体験をもととした紀行文『ソングライン』を上梓した後、チャトウィンは病に倒れ、その病床に伏せている間に回顧録ともいうべき自薦短編集『どうして僕はこんなところに』を執筆し、そしてそのまま帰らぬ人となってしまいました。

 

チャトウィンパタゴニアへ旅立つ前は、サザビーズの鑑定士や新聞社の特派員を務めていたことから、世界を見る視点がユニークな上に文章も洗練されており、『パタゴニア』以外の著作もぜひ手に取って読んでいただきたいです。

 

ソングライン series on the move

ソングライン series on the move

 
どうして僕はこんなところに (角川文庫)

どうして僕はこんなところに (角川文庫)

 

 

なお、『パタゴニア』はこれまで「世界文学全集」(川出書房新社)の中に収められていたのですが、昨年に文庫化されて入手しやすくなりました。

 

 

2.『すべての美しい馬』/コーマック・マッカーシー

すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)

すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)

 

 

人間の暗部を独特の乾いた文体であぶり出すコーマック・マッカーシーの「国境三部作」の第一部です。

 

コーマック・マッカーシーは日本ではあまり知られていませんが、映画好きの方であればコーエン兄弟が制作した「ノーカントリー」の原作者といえば分かるかもしれません。

 

ちなみに、この『すべての美しい馬』もマット・デイモン主演で映画化されているのですが、ちょっと原作負けしていて残念な出来栄えです。

 

物語の舞台は1949年のテキサス。

 

主人公は祖父が経営する牧場で暮らしており、その牧場と馬たちをとても愛していました。

 

しかし祖父が亡くなると、遺産相続人である母は時代遅れとなってしまったその牧場を売却してしまい、主人公は自分の居場所を喪失してしまいます。

 

そこで主人公は親友とともに愛馬を駆って、まだ馬との生活が残っているメキシコへと越境します。

 

馬たちの息遣いと赤い荒野、静寂、雨の匂い、焚き火とそれを取り囲む闇――読み進めるうちに、きっと読者の心の中に眠る放浪者が呼び覚まされるはずです。

 

そして紆余曲折を経て、2人はとある大きな牧場の牧童として働くことになるのですが、主人公と牧場主の娘が恋に落ちてしまい――?!

 

主人公はこの喪失の旅で何を得たのか――ぜひこの後につづく『越境』と『平原の街』も読んでこの物語の結末を見届けていただきたいです。

 

特に、10~20代の若い方に強くおススメします。

 

きっとこの世界の見方が変わると思います。

 

越境 (ハヤカワepi文庫)

越境 (ハヤカワepi文庫)

 
平原の町 (ハヤカワepi文庫)

平原の町 (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

3.『鉄道大バザール』/ポール・セルー

鉄道大バザール 上 (講談社文芸文庫)

鉄道大バザール 上 (講談社文芸文庫)

 
鉄道大バザール 下 (講談社文芸文庫)

鉄道大バザール 下 (講談社文芸文庫)

 

 

「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」

 

これは内田百閒の「阿房列車」シリーズの有名な一文で、このシリーズでは夏目漱石の弟子でり、また鉄道オタクという一面をもった内田百閒が弟子を連れ、借金までして行った愉快(?)な鉄道旅が描かれているのですが、『鉄道大バザール』はその世界版ともいうべき紀行文です。

 

第一阿房列車 (新潮文庫)

第一阿房列車 (新潮文庫)

 

 

 このポール・セルーも内田百閒に負けないくらいの鉄道オタクで、本著では「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つてユーラシア大陸一周へ行つて来よう」と思ってロンドンを出発し、日本を経由して最後はシベリア鉄道でロンドンへ戻るという壮大な鉄道旅が描かれています。

 

時代は1970年代――まだまだアジアにおける旧宗主国の支配の爪痕は残っていたようで、ポール・セルーは鉄道事情からそうした問題を切り取り、軽快かつブラック・ユーモアも織り交ぜながら描き出していくのが大変に興味深くおもしろいです。

 

これを読むと無性に鉄道に乗って旅に出たくなります。

 

もちろん、ポール・セルーがシステマチックで退屈と切り捨てた新幹線ではなく、在来線などで旅をしたいです。

 

僕はこれを読んだ後に、アマゾンプライムシベリア鉄道の旅を見てしまいました。

 

ちなみに、ポール・セルーはこの大旅行から帰ったら、なんと奥さんがその間に浮気をしていたことが分かり、大変な目にあったとかあわなかったとか・・・。

 

 

4.『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』/村上春樹

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

 

 

村上春樹氏の小説にはよくウィスキーが登場します。

 

印象的なシーンはいくつかありまして、例えば『ノルウェイの森』では美大生と一緒に七輪でシシャモを焼きながらシーバス・リーガルを飲んだり、『ダンス・ダンス・ダンス』では主人公の部屋に訪れた五反田君に即席でつくったおつまみとカティー・サークをふるまったりしました。

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 
ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

 

 

村上氏の小説におけるウィスキーは、主に親密さや孤独、緊張や重苦しさからの救済などといった装置としての機能を持っていると思います。

 

本著は、そのウィスキーをテーマとして村上氏が、ウィスキーの二大聖地であるスコットランドアイルランドを訪れた紀行文です。

 

ウィスキー蒸留所の見学や地元のパブでの飲み比べ等々、ウィスキー(正確にはシングルモルト)についての紹介だけではなく、ウィスキーに対する醸造家の矜持やパブ常連客の姿勢から普遍的な人生哲学のようなものを読み解くことができます。

 

また紀行文という体裁ですが、所々に村上夫人が撮影したとてもすてきな写真が掲載されていて、ウィスキーを片手に写真だけを楽しむというのもいかもしれません。

 

なお、村上氏による紀行文はこのほかにも多く出版されていて、本著をきっかけにそれらも手に取って読んでいただけたら幸いです。

 

 

5.『POLAR』/石川直樹

POLAR ポーラー

POLAR ポーラー

 

 

石川直樹氏は人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている写真家です。

 

また2001年に、当時の七大陸最高峰登頂世界最年少記録を塗り替えるなどの活躍をされています。

 

その石川氏が10年にわたって断続的に旅してきた北極圏を一冊の写真集にまとめたのがこの写真集です。

 

一口に「北極圏」といってもその範囲は広く、具体的には北緯66度33分以北の地域のことを指し、アメリカやカナダ、ロシアをはじめ8カ国にまたがっています。

 

「北極圏」と言えばとても寒いイメージがありますが、実際の気温は、国立極地研究所の共同利用施設であるニーオルスン観測基地(北緯79度)で見ると、平均気温は-6.2度、最低気温-42.2度だそうです(ちなみに、北極と南極どちらが寒いかというと、南極の方が寒いようです。南極恐ろしい・・・)。

 

そしてこの地域は、真冬に太陽が昇らない極夜と、真夏に太陽が沈まない白夜が訪れます。

 

そんな私たちの想像を超えるような厳しい気象条件下での人々の暮らしや風景がこの『POLAR』で見ることができます。

 

この写真集に収められている写真は単なる記録などではなく、そこには確かに自然の畏れと人間の力強い生を感じられることができます。

 

またこれがすべてフィルムで撮られているので、時代に左右されないようなリアリティーと力強さがあります。

 

ちなみに、なぜデジタルではなくフィルムで撮るのかというと、フィルムという撮る枚数が制限された不自由さが「突き抜ける力」を生むとのことです。

 

いやはや、普段デジタルで無用にシャッターを切る身としては耳が痛いです。

 

www.ana.co.jp

 PLAUBEL makina670とまでは言わないけど、フィルムカメラ買ってみようかな・・・。

 

 

おわりに

「旅」というのは過渡的で一時的なものでありながら孤独であることを要し、その人をよりタフにさせます。

 

したがって「旅」は人間の営みの中で必要な行為だといえますが、現実的に僕らは時間やお金といった制約からなかなか「旅」をすることができません。

 

だからこそ、紀行文や小説などは重要な存在意義を有していて、僕たちはそれらを通して「旅」を追体験することで少しだけタフになることができるのではないでしょうか。

 

最後に、結果として5冊以上の本を紹介していますが、このうち1冊でも興味をもっていただけると嬉しいです。

 

共同体の本質―『蠅の王』と『芽むしり仔撃ち』を比較して―

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はじめに

2月の個人的課題図書『蠅の王』を読了した。

 

yohane83.hatenablog.com

 

『蠅の王』は高校生の時に一度読んだことがあるのだが、今回は新訳で、しかも訳がコーマック・マッカーシーをはじめ数々の名訳を生み出してきた黒原敏行さんが担当されたということで改めて読み直してみた。

 

読了してまず思ったのは、1月に読んだ『芽むしり仔撃ち』と多くの部分で設定が共通していながら、子供たちの心理に関する描き方を主にさまざまな相違があったということだ。

 

今回は、『蠅の王』と『芽むしり仔撃ち』を比較して共同体の本質について考えていきたい。

 

物語のあらすじ

疎開する少年たちを乗せた飛行機が、南太平洋の無人島に不時着した。生き残った少年たちは、リーダーを選び、助けを待つことに決める。大人のいない島での暮らしは、当初は気ままで楽しく感じられた。しかし、なかなか来ない救援やのろしの管理をめぐり、次第に苛立ちが広がっていく。そして暗闇に潜むという“獣”に対する恐怖がつのるなか、ついに彼らは互いに牙をむいた―。

※「BOOK」データベースより

 

 

『蠅の王』と『芽むしり仔撃ち』の共通性と相違性

 この2つの小説の設定は奇妙に似ていながら、内容が大きく異なっている。

 

そこで、設定における共通性と内容の相違性を挙げてみたいと思う。

 

<共通性>

  • 戦中を舞台にし、物語のスタートがどちらも疎開から始まる
  • 疎開する子供たちが不可抗力により、隔絶された空間でサバイバルを強いられる
  • 主人公が子供たちのリーダー格

 

<相違性>

  • 『蠅の王』では子供たちが分裂し対立するが、『芽むしり仔撃ち』では団結し協調する
  • 『蠅の王』におけるラストは大人によって救出されるが、『芽むしり仔撃ち』では大人に排除され絶望的な状況に追い込まれる

 

ポイントは、協調と対立である。

 

『蠅の王』において、子供たちにとって大人は状況を打開し得る救済者であるのに対し、『芽むしり仔撃ち』においては、大人は子供たちを抑圧する存在で敵対していた。

 

つまり、『蠅の王』では子供たちの集団の外において敵対者がいなかったために集団内で対立し、一方で『芽むしり仔撃ち』において大人は敵であったために子供たちは協調したのだ。

 

換言すれば、共同体というのは敵の存在なしには成立しないのである。

 

 

共同体に潜む「悪」について

この敵対を描くことによって、『蠅の王』では人間に潜む普遍的な悪を表出できたし、一方で『芽むしり仔撃ち』では大人たちの矛盾によって生み出された「悪」をあぶりだすことに成功したといえる。

 

これらで描かれている共同体に潜む「悪」は寓意ではあるが、その寓意は普遍性を持っているため、逆に現実世界へとリンクし、私たちを当惑させるのである。

 

私たちはこの「悪」を自覚しつつも、何かしらの共同体に属し、時には他者を排除したりする。

 

何がそうさせるのだろうか?

 

恐らくそれは「恐怖」だろう。

 

『蠅の王』におけるジャックで例を挙げれば、ジャックは自分の意見とかみ合わず、このままでは自己の存在理由が危ぶまれると恐怖したことにより、反ラルフ同盟ともいうべき「部族」を形成し、次にラルフ達から隔絶するために砦を築き、そしてラルフの相棒であり頭脳でもあるピギーを殺害し(実際に手を下したのはロジャーだが)、ついにはラルフを孤立させ殺そうとする。

 

私たちは恐怖から身を守るために共同体を形成するが、そこには一つの目的と考えしかないために、周囲からみれば人道に反した行動をとったとしても気づかないのである。

 

さらに、ジャックが「部族」の形成からエスカレートして砦まで作ったように、最小の恐怖からまた別の恐怖が生まれ、さらにその恐怖から別の恐怖が生まれるという連鎖が起き、気がつけば取り返しのつかない事態にまでなってしまう。

 

 

おわりに――『蠅の王』のすごさについて 

『芽むしり仔撃ち』は詩的な文章と舞台設定により、現実に寄り添った世界観でありながら、同時にどこか非現実的なのである。

 

一方、『蠅の王』は島における子供たちの行動や心理に関する描写がち密に描かれており、現実に寄り添った世界観である。

 

しかし、それはあくまでもサイモンと「蠅の王」との対話シーンが登場するまでの話。

 

後半で、サイモンという少年と「蠅の王」が対峙し、サイモン少年はそこで人間に潜む「悪」の本質を「蠅の王」から説かれるシーンが登場する。

 

この対話シーンは突如、それまでの現実的な世界から跳躍して異質な世界観の中で語られるのである。

 

初めて『蠅の王』を読んだとき、この跳躍に身震いした。

 

このシーンがなければ、恐らくこの小説は高い評価を得られていないのではないだろうか。

 

この跳躍は『芽むしり仔撃ち』にはないすごさだと思う。

 

ぜひとも、両作品を読み比べていただきたい。

 

蠅の王〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

蠅の王〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

 
芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

 

『芽むしり仔撃ち』から見る「自由」について~共同体における自由の幻想~

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yohane83.hatenablog.com

 

 

1月の課題図書『芽むしり仔撃ち』が予想以上におもしろかったので、自分なりの感想を以下にまとめてみた。

 

作品概要

大戦末期、山中に集団疎開した感化院の少年たちは、疾病の流行とともに、谷間にかかる唯一の交通路を遮断され、山村に閉じ込められる。この強制された換金(※)状況下で、社会的疎外者たちは、けなげにも愛と連帯の“自由の王国”を建設しようと、緊張と友情に満ちたヒューマンなドラマを展開するが、村人の帰村によってもろくも潰え去る。綿密な設定と新鮮なイメージで描かれた傑作。

大江健三郎 『芽むしり仔撃ち』 | 新潮社

※恐らく「換金」ではなく「監禁」の間違いだと思う。

 

 

<主な登場人物>

  • 僕:主人公。感化院の少年たちのリーダー格。
  • 弟:「僕」の弟。集団疎開のために無理やり感化院に入れられた。
  • 南:「僕」と同世代で、もう一人のリーダー格。
  • 李:村の朝鮮人集落の少年。僕や南らと行動を共にする。
  • 少女:母を疫病で亡くす。僕と恋仲になる。
  • 鍛冶屋の男:村での感化院の少年たちを監視する役を務める。
  • 村長:村の権力者。感化院の少年たちの生殺与奪権を握っている。
  • 脱走兵:演習中に脱走した兵士。元々は文系の学生。

 

 

共同体という見えない壁

「僕」をはじめとする感化院の少年たち(以下、「僕ら」)は、集団疎開の途中で何度か脱走を試みるも、行く先の村の人々に捕まえられた上に暴力を振るわれ、連行された。

 

そうして「僕ら」は周囲に村(=共同体)という見えない壁があり、その壁は部外者であり犯罪者でもある「僕ら」を決して受付けないことを学習した。

 

「僕ら」は各地を転々とし、ついに集団疎開を受け入れてくれる村へ行き着いた。

 

だが、その村も「僕ら」を拒絶し、人間として扱うことはなく、「僕ら」は村(=共同体)という見えない壁に監禁され、支配されるのであった。

 

村は、谷を渡った深い山奥にある寒村である。

 

また村には、村の家畜や周囲に生息する野生の動物たちが次々と謎の病に侵され死んでおり、不穏な空気が流れていた。

 

村は当初、「僕ら」を使役して謎の病で死んだ動物たちの処理を行い、村に疫病が流行るのを防ごうとする。

 

しかし、朝鮮人集落の者(李の父)が死に、村人(少女の母)が死に、最後に「僕ら」の仲間が死ぬと、村人たちは「僕ら」を見捨てて隣の村へ一斉に避難してしまう。

 

「僕ら」は地理的にも物理的にも閉鎖された環境下で生き延びなければならなくなる。

 

だが、同時にそれは村(=共同体)という見えない壁が崩れ、自由を享受することになったのだった。

 

「自由の王国」の誕生から崩壊まで

村人が「僕ら」を見捨てた後、「僕ら」は唐突に自由を享受するのだが、その自由をどう享受すればいいのか分からず、はじめはその自由を弄んでいた。

 

しかし、「僕ら」は村の朝鮮人集落出身の少年である李と出会ったことで徐々に変わっていく。

 

まず、彼から脱走兵をかくまっていることを打ち明けられ、「僕ら」と秘密を共有することで連帯感を強めた。

 

さらに、「僕ら」は李から狩猟や祭りの行い方を教わることによって、徐々にその自由を謳歌するのと同時にさらに連帯感を強めていき、自由を獲得した充足感を味わっていく。

 

また「僕」は母を疫病で亡くし「僕ら」と同じく村人に見捨てられた少女と心を通わすことによって、心が満たされていった。

 

気がつけば、「僕ら」と李、少女、脱走兵という社会的アウトサイダーで構成された「自由の王国」が誕生したのだった。

 

だが、この社会的アウトサイダーで構成された共同体の強固な連帯から生まれた自由は、この後すぐに脆くも崩れ去ることになる。

 

新潮社の公式サイトで紹介されている通り、この自由の崩壊は「村人の帰村によって」起こされているとされているが、私は違うと思う。

 

それよりも前――つまり、南が弟の犬・レオを撲殺したときだと私は考える。

 

村人が不在となって以来、「僕ら」は自由を謳歌していた。

 

そこには「僕ら」を縛る規律はなく、また差別もなく(脱走兵に対する軽蔑はあったが)、まさに自由な生活を送っていた。

 

しかし、弟が飼っていた犬・レオが疫病に侵されているのではないかという疑いが掛けられると、「僕ら」はその犬を共同体から排除しようとする。

 

さらにその犬をかばう弟も非難の対象となり、共同体から疎外されそうになる。

 

ついには、南がその犬を撲殺し、疫病の蔓延を阻止しようとする。

 

兄の「僕」でさえ、弟をかばわずにその行為を黙認してしまう。

 

犬は死に、弟は悲しみと絶望のあまり自ら共同体を抜け出して失踪してしまう。

 

結果として、「僕ら」は村人と同じように共同体を維持するために暴力的な手段で脅威を排除したのだった。

 

この時点で「自由の王国」は崩れ去り、新たな共同体としての規律が生まれ、「僕ら」はそれに縛られるのだった。

 

「僕」にとっての本当の自由の恐ろしさ

「僕」は南や他の感化院の少年たちとは違い、冷静な判断力や洞察力を持った人物だ。

 

例えば、「僕ら」が疫病という見えない脅威によって恐慌状態に陥らないようにしたり、前述のとおり「僕ら」共同体維持のために弟を切り捨てたりと、大人顔負けのことを行っている。

 

本人は、「僕ら」のリーダーではないと口では言ってはいるが、その行動からリーダーとしての務めを果たしていることがうかがえる。

 

従って、一見「自由の王国」では自由にふるまっているかのように見えるが、「僕」はリーダーとしての規範に縛られており、本当の意味での自由は享受していない。

 

しかしながら、弟といるときだけは自由を享受していたように見受けられる。

 

弟は「僕」にとって心の支えであるだけではなく、他者との潤滑油的な役割を担っていたいわば境界人の存在だといえるだろう。

 

なぜなら弟は元々、感化院に収容されたのではなく、親の意向で無理やりいれられた普通の子供であり、一方では感化院の少年たちから仲間として受け入れられていたからである。

 

個人的には『ライ麦畑でつかまえて』のフィービーに似ている部分があると思う。

 

そんな「僕」にとって大切な弟が、レオの撲殺以降に失踪してしまう。

 

そしてその後、村人たちが村に帰還し、脱走兵を血祭りにあげ、「僕ら」を暴力でもって村に置き去りにしたことをなかったことにしようとする。

 

「僕ら」は置き去りにされたことをなかったことにはできないと反発したが、いかんせん「僕ら」は飢えていた。

 

一人また一人と、村長から握飯をやるという取引に応じ、「僕ら」を裏切って離れていってしまう。

 

最後に「僕」だけが残り、抵抗する。

 

恐らく「僕」は自覚していたのだろう――弟を失うことになったレオの撲殺を黙認したことは、彼ら村人たちがしたことと同じことだと。

 

むしろ抵抗というよりも贖罪に近いのかもしれない。

 

「僕」が屈服しないことに見かねた村長は、「僕」を村から追放することに決める。

 

そして「僕」は追放されることによって「僕ら」と「村」という二つの共同体から解放され、真の意味での自由を手にすることになった。

 

だが、最後の文章から暗示されるように、その自由はとても残酷で、先行きは暗澹たる絶望の闇が広がっているようだ。

 

2018年の個人的な課題図書

1月1冊-課題図書-

yohane83.hatenablog.com

 

今年の抱負の中で、「毎月、一冊以上の課題図書を設定して読書する」というものを掲げたので、以下にそれぞれの月ごとの課題図書を設定してみた。

 

1月  芽むしり仔撃ち/大江健三郎

2月  蠅の王/ウィリアム・ゴールディング

3月  気流の鳴る音-交響するコミューン-/真木悠介

4月  ロード・ジム/ジョゼフ・コンラッド

5月  オン・ザ・ロードジャック・ケルアック

6月  すばらしい新世界/オルダス・ハクスリー

7月  巨匠とマルガリータ/ミハイル・A・ブルガーコフ

8月  見る前に跳べ/大江健三郎

9月  ヒューマン・ステイン/フィリップ・ロス

10月  不幸な女/リチャード・ブローティガン

11月  みみずくは黄昏に飛び立つ/村上春樹川上未映子

12月  ヴァインランド/トマス・ピンチョン

 

ほとんどは積読本である。

 

中には5年以上も放置している本もある。

 

いい加減に読まないと罰が当たりそうで怖い…。

 

読後は感想をまとめて掲載していきたいと思っている。

 

まずは今月の課題図書『芽むしり仔撃ち』だ。

 

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

 

 

大江健三郎って何だか難解なイメージがあったが、これまで『死者の奢り/飼育』と『個人的な体験』を読んでみて、そこまでではないかな…と思っている。

 

それよりも、レトリックや自然の描写がすばらしく、何度もハッとさせられた(特に『個人的な体験』の冒頭は見事だと思う)。

 

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

 

 

外国文学ばっかり読んでいると、どうしても翻訳の文体に慣れてしまい、なかなか美しい日本語に出会うことが無い。

 

今後はきちんと日本文学も読んでいこうと思う。

 

カズオ・イシグロだけじゃない! ハヤカワepi文庫のおすすめ小説5選

 

先日、書店に足を運んだら、カズオ・イシグロの本が売り切れになっていた。

 

ハヤカワepi文庫のファンであるが、この文庫コーナーで売り切れが出たのを見たのは初めてだ(失礼…)。

 

ハヤカワepi文庫には名著と名訳が多くある。

 

これを機に、他のハヤカワepi文庫に収められている作品を読んでもらいたいと思い、おすすめ小説を5冊紹介していく。

 

1.『すべての美しい馬』/コーマック・マッカーシー

すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)

すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)

 

 

コーマック・マッカーシーは、現代アメリカ文学における巨匠の一人。

 

著作のうちいくつか映画化もされ、中でも「ノーカントリー」はコーエン兄弟がメガホンを取り、アカデミー賞4冠を達成した。

 

さて、この本はコーマック・マッカーシーの「国境3部作」の1冊目にあたる。

 

物語は、主人公・ジョン・グレイディの「喪失」から始まる。

 

祖父の死、両親の離婚、そして唯一の居場所だった牧場の売却――ジョン・グレイディは、もうここには俺の居場所はないと悟る。

 

親友であるレイシー・ロリンズとともに愛馬を駆り祖国を捨て、メキシコへ越境する。

 

メキシコは忘れつつあった人と馬の生活が残る“楽園”だったが、主人公たちは思いもよらない過酷で暴力的な運命へ巻き込まれていく…。

 

これほどまでに心を揺さぶられ、しびれる小説は他にはないと思う。

 

また、「国境3部作」の2冊目『越境』と3冊目『平原の町』もつづけて読んでいただきたい(どちらもハヤカワepi文庫で刊行中)。

 

キーワード:喪失、暴力、青春、運命、荒野、放浪、国境、カウボーイ

 

 

2.『日はまた昇る』/アーネスト・ヘミングウェイ著 

日はまた昇る〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

日はまた昇る〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

 

 

アーネスト・ヘミングウェイは、代表作『老人と海』で知られ、1954年にノーベル文学賞を受賞しているアメリカの作家だ。

 

この『日はまた昇る』は初期の代表作であり、またヘミングウェイ研究者の間では彼の最高傑作であると断言する人もいる。

 

物語は第一次世界大戦後のパリを舞台に、主人公・ジェイクと、ジェイクに惹かれてはいるものの“ある理由”で彼を愛すことができない魅力的な女性のブレットを中心に物語は進む。

 

あるとき、ジェイクとその友人たち、そしてブレットと共に、スペインのパンプローナ牛追い祭りに行くことになる。

 

その7日間の狂乱的な祭りの中で、ブレットをめぐって様々な思いが交錯する――そこでブレットが取った行動とは…?!

 

最後のブレットがジェイクに言ったセリフには、読者に言葉にならない喪失感とやるせなさを味あわせるだろう。

 

スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が好きな方は、ぜひおすすめしたい。

 

キーワード:ロスト・ジェネレーション、喪失、祭り、孤独、戦争

 

 

3.『1984年』/ジョージ・オーウェル

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

ジョージ・オーウェルは、イギリスの作家およびジャーナリストで、代表作『1984年』の他に『動物農場』がある(『動物農場』もハヤカワepi文庫にて刊行中)。

 

この『1984年』は、1949年に刊行してから非常に高い評価を受けつづけており、2002年にノルウェー・ブック・クラブ発表の「史上最高の文学100」に選ばれている。

 

物語の舞台は、架空の1984年の世界。

 

その世界は核戦争を経て、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。

 

主人公のウィンストン・スミスは、その3国のうちのオセアニアで下級役人として暮らしている。

 

オセアニアは“ビッグ・ブラザー”率いる政党による一党独裁体制で、思想、言語、風俗までありとあらゆるものが統制され、また市民を「テレスクリーン」と呼ばれるテレビと監視カメラを兼ねたデバイスで常に監視下に置いていた。

 

そんな抑圧的な体制下で、ウィンストンは党のやり方に疑問を感じながらも、その考えが明るみに出ないように神経をすり減らしながら、孤独な生活を送っていた。

 

そんな中、ウィンストンは一人の美しい女性ジュリアからラブレターをもらい、だんだんとこの世界に希望を持ち始めるが、彼が待ち受けていたのは…。

 

読んでいて一番驚いたのは、この本が1949年に刊行していながら現在の世界を予言しているのではないか、と思ってしまうほど実に先見の明に優れた内容だったことだ。

 

ジョージ・オーウェルは義憤に駆られて、自らスペイン内戦に参加した経験を持ち、いかに人間の作り上げたシステムが愚かで脆弱であるかを見抜いていた。

 

ある意味、この本は我われに対する警告なのかもしれない。

 

キーワード:ディストピア全体主義、自由、個人の尊厳、システム、二重思考

 

 

4.『愛のゆくえ』/リチャード・ブローティガン

愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)

愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)

 

 

リチャード・ブローティガンは、アメリカの詩人および作家である。

 

代表作に『アメリカの鱒釣り』や『西瓜糖の日々』がある。

 

リチャード・ブローティガンの小説はどれもぶっ飛んでおり、読後の感想としては「すごい!」の一言しか言い表せない。

 

物語の主人公は、図書館に住み込みで働く「私」。

 

この図書館は普通の図書館とは違い、人々が自分で書いて持ち込んだ本を納めているという一風変わった図書館である。

 

ある日、この図書館に絶世の美女のヴァイダが本を持ち込んでくる。

 

「私」はヴァイダと恋に落ち、一緒に図書館で暮らすことになる。

 

そして彼女は妊娠するが、メキシコに行って中絶をすると言い出す。

 

「私」はそれを受け入れ、彼女と一緒にメキシコへ旅をする。

 

原題は“The Abortion”つまり「堕胎」であり、大変重々しいテーマであるが、ブローティガンの幻想的な世界では、それが不思議とコミカルかつユーモアに展開されていく。

 

これを読めば、ブローティガン中毒者になること間違いなし!

 

キーワード:性、中絶、生と死、倫理、幻想

 

 

5.『恥辱』/J.M.クッツェー

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

 

 

J.M.クッツェーは、南アフリカ出身の作家で、2003年にノーベル文学賞を受賞した。

 

受賞理由は、「アウトサイダーが巻き込まれていくさまを、無数の手法を用いながら意表をついた物語によって描いたこと」である。

 

そして本作『恥辱』の主人公もある意味アウトサイダーなのである。

 

主人公であるケープ・タウン大学教授デイヴィッド・ルーリーは離婚して以来、娼婦や手近な女性で自分の欲望をうまく処理してきたが、学生に手を出してしまったことがきっかけで、セクハラを理由に職を辞することになってしまう。

 

その後、デイヴィッドは娘が運営している農園へ身を隠すが、そこでは更なる「恥辱」が彼を待ち受けていた…。

 

このデイヴィッドは本当に救いようのないただのエロオヤジなのだが、読み進めていくうちに何だか憎めないように思えてくる。

 

そしてこのエロオヤジを通して、アパルトヘイト後の南アフリカを生きる苦悩を味わうことができる一冊。

 

キーワード:セクハラ、転落、アパルトヘイト、情けない男